掌編までと決めているとは言え

・SSを毎日書くのって大変じゃないっすね(ぉ 俺なりには苦労して工夫していろいろやってるけど、どのくらい通じてるのか。まぁ、実際にはそこんところが技量てなこったなんすけどね。

・あとはこれと言って特筆すべきこともないが、なんか出向先は早めに決めないと初月だけ日給月給になりそうなのがちょっとムカつく。それとファミリーマートのシューマイチャーハン弁当。チャーハンじゃなくていい、白飯にしてくれ(ぉ

だぁれに断ってログアウトしてんだコラ(ぉ

・やべーよ6月終わるのにまだ配置部署決まってないよ、って俺がゴネまくってっからなんだけど。マジ他社出向が想定域。

・ついった復活とは言っても基本的に無口な人たちので、会社にえくすぺ持ってってTLちぇっくとかしなくても大丈夫な気がする。その気になりゃガラケー使えばいい話しだしね。

・そう言えば「何を紗水は物書きでもないくせに物語論とか語り始めたの? バカなの? 死ぬの?」と言われてもおかしくないのにその手苦情が一件もないのは、きっと「俺の見えないところでやっている」「そもそも読んでねぇ」のかわからないのがスリルだね、サスペンスだね。

・たぁ言え、書かないことには感覚も戻ってこなかろう、と言うわけでPixiv小説にぼつぼつと小品をうpっている。ユーザ名は教えてやーんねw

30過ぎてからのローリング・ワールド

・いわゆるクライマックスシーンに近付き、もうすぐ事件も解決するだろうと言うところで、思わぬどんでん返しが起きることで、物語全体のテンションがさらにヒートアップするのは間違いない。中には「どんでん返しからシナリオを考えろ」と言う意見もある。なるほど、確かに強烈などんでん返しがない作品は、エンタテインメントとして相応しくない物に映る。映画を「芸術」と捉えるか「エンタテインメント」と捉えるかは結局のところ「自分の撮りたいものが何なのか」と言うだけのことだ。美しく頽廃的で自己満足なレトリックに満ちた「芸術」とするか、派手な展開とギミックを用意して視聴者を楽しませる「エンタテインメント」にこだわるか。まぁ、後者のほうが圧倒的にカネになることは間違いないんだけどね。

・ただ前述の例が極端な話であり、その中間的な作品だって存在する。まぁ、大概そういうのはどっちつかずの蝙蝠になってたりするのだけれども。本当言うと俺ぁ前者に行きたかったわけだ。スクリーンから勝手にストーリーが流れてきて、要するに「見てればいい」と言うのは、確かにそういうものを面白く作れる人間の才能は看過できないが、正直なところそうした手法に興味がなかった。「読んで追っていけばいい」と言うものを書くようになったのも、俺がアイマスにハマったからなのだ。人間はどこで道を踏み外すのか、わかったもんじゃないなと言う思いが昨今付き纏う次第だ。

・まぁ、いずれはやらかすと思うんですが。実験的なことは。「あー、紗水がまたなんかやってらぁ」と薄情に流してくれれば十分です、はい。

《人物》は必ずしも《人》ではない、と言う論理

・例えば、大竜巻が起きて登場人物が巻き込まれた、あるいは物損が生じたと言う場合を考えると、そこで登場する《人物》は登場人物だけではなく、大竜巻も《人物》として動かさないと、きちんとした《事件》とのリンクを結べない。登場人物に纏わる《事件》と、大竜巻が起こした《事件》は、能動/受動と言う「態」の視点によって逆転しているだけで、本質的には同じ事件なのである、と言うことを認識する必要がある。ただ、当然大竜巻は無生物であるから、何ら自らに意志もなく(あったらその時点でSF的考証を開始しなければならない)、好き放題暴れて犠牲者を出すだけだが、大竜巻に巻き込まれた《人物》にとっては、大竜巻に巻き込まれて犠牲をうけたその事実そのものが既に《事件》であり、大竜巻が全く無関係に暴れる《時間》と同じ《時間》を、全く違う場面で共有することになる。

・もちろん犠牲者が一人とは限らないし、死者も出るだろう。死者となった《人物》を描写することは、死者自身の《時間》はもうその時点から不動であることを意味する。だからその《人物》を真っ当な人間として「描写するには、《時間》の中で過去に遡らねばならい。もしくは《事件》が発せするまでの間に、それ以外の《人物》《事件》と連関性を持っていなければならない。つまり「死者の視点」と言うのは、その《人物》が死者になった時点で存在しなくなるのだ。ただ、そうではなくてかつての《人物》であったものがゾンビとして集落を襲うような結果になるのなら、またそれは話は別だが、ここで注意しなければならないのは、どの《時間》に何の《事件》が起きていて、感情演算子演算子、と言ってるが数学的なものではない。思い付かなかっただけだ)によって生じる因果律が保持されていなければ、つまり例えば、大竜巻で犠牲になった死者がゾンビになって村を遅ってくるためには。「大竜巻が起きる→その《人物》が死ぬ→その《人物》がゾンビとして復活する」と言う《時間》の流れが精緻でなければならない。その他のギミックについて言うなら「うははwww B級乙www」みたいなのでもいいのだが、《人物》と言うのは《事件》を起こす、あるいは《事件》に巻き込まれることで《時間》が進み、その関係子である《人物》《事件》《時間》と言う三つの「軸」が座標を結ぶ《時間》の関数として定義されるのである。

原因と結果の間にあるもの

・「なんかよくわかんないけど、これがこうなっちゃったら面白いんじゃね?」と言う時がある。つまり「結果逆算型」の考え方である。これに大して「なんかよくわかんないけど、こんなことが起きたらどうなっちゃうんだろう、って考えると面白くね?」と言う「原因始源型」の思考法がある。なぜこの二つの考え方が両立し得るのか。その間に存在する「因果律」がストーリーの根幹になるからだ。

・以前ラジオで「SSにおいてはプロットは組まない」と明言したが、通常のプロットと違った部分でやはり梗概的なものは断片的にではあるが書き記したりはする。ぶっちゃけマインドマップだのマンダラートだのと言った高度な思考方法を用いるつもりはなく、もっともプリミティブな「箇条書き」が一番手間もかからないし、箇条書きは別に「時系列に並べなければならない」わけではない。だから因果律をまとめて最終的なストーリーに結びつけるためには、情報を圧縮する前に「書き切れるだけ書いてから潰していく」必要がある。そうでないと、本来要るものまでどっかに飛ばしてしまって、細かい因果律が成立しないケースもある。

・僕らが見せたい、読ませたいと思うのは「原因と結果」だ。ただ、そこまで行き着くために必要な因果律をどう構築するかで、その作品の「稠密度」も変化する。みっちりと細かい情報が詰まっていれば、読者としては――その著者の筆致が感性に合わない限り――読了まで果てしない苦痛となる。ともすれば投げ出されてしまうだろう。あくまで中庸でありながら、巧みに読者の意識を「間違った方向」に向けさせて、そこからどうやって「どんがらがっしゃん」しても、きちんと想定通りの結果に帰ってくる。特に現実に存在し得ない事物・現象を扱う上で、このことは慎重に行われなければならないのだ。

・ま、そう言うわけで、みんなもアイマスSF書こうぜ!