《人物》は必ずしも《人》ではない、と言う論理

・例えば、大竜巻が起きて登場人物が巻き込まれた、あるいは物損が生じたと言う場合を考えると、そこで登場する《人物》は登場人物だけではなく、大竜巻も《人物》として動かさないと、きちんとした《事件》とのリンクを結べない。登場人物に纏わる《事件》と、大竜巻が起こした《事件》は、能動/受動と言う「態」の視点によって逆転しているだけで、本質的には同じ事件なのである、と言うことを認識する必要がある。ただ、当然大竜巻は無生物であるから、何ら自らに意志もなく(あったらその時点でSF的考証を開始しなければならない)、好き放題暴れて犠牲者を出すだけだが、大竜巻に巻き込まれた《人物》にとっては、大竜巻に巻き込まれて犠牲をうけたその事実そのものが既に《事件》であり、大竜巻が全く無関係に暴れる《時間》と同じ《時間》を、全く違う場面で共有することになる。

・もちろん犠牲者が一人とは限らないし、死者も出るだろう。死者となった《人物》を描写することは、死者自身の《時間》はもうその時点から不動であることを意味する。だからその《人物》を真っ当な人間として「描写するには、《時間》の中で過去に遡らねばならい。もしくは《事件》が発せするまでの間に、それ以外の《人物》《事件》と連関性を持っていなければならない。つまり「死者の視点」と言うのは、その《人物》が死者になった時点で存在しなくなるのだ。ただ、そうではなくてかつての《人物》であったものがゾンビとして集落を襲うような結果になるのなら、またそれは話は別だが、ここで注意しなければならないのは、どの《時間》に何の《事件》が起きていて、感情演算子演算子、と言ってるが数学的なものではない。思い付かなかっただけだ)によって生じる因果律が保持されていなければ、つまり例えば、大竜巻で犠牲になった死者がゾンビになって村を遅ってくるためには。「大竜巻が起きる→その《人物》が死ぬ→その《人物》がゾンビとして復活する」と言う《時間》の流れが精緻でなければならない。その他のギミックについて言うなら「うははwww B級乙www」みたいなのでもいいのだが、《人物》と言うのは《事件》を起こす、あるいは《事件》に巻き込まれることで《時間》が進み、その関係子である《人物》《事件》《時間》と言う三つの「軸」が座標を結ぶ《時間》の関数として定義されるのである。