美味しいか否か

 そうだな。例えば僕が、君に初めて手料理を振る舞おうとするよね。
 ……そんな顔するなよ。例え話だと、さっき念を押したばかりだろう?


 僕は美食家でもないし、料理に対してちゃんとした習いがあるわけでもない。
 それでも、ある料理が美味しいとか美味しくないとか、そういう批評はできる。批評でさえないだろうね、自分にとってそれが美味しいか美味しくないかなんて、誰かにとっての絶対的な指標にはならない。ものすごく相対的で曖昧で、且つ「聞いてみないと分からない」代物なんだろうと思うんだ。
 だってそうじゃない? 身体に毒かどうかは別問題として、それが「美味しい」と思う気持ちって言うのはさ。一日や二日でできあがるわけじゃないんだよね。そう、僕らはこの世界に生まれ落ちて、お母さんのおっぱい以外の物を口にし始めることによって、初めて味覚と言うものに目覚める。僕らはお母さんのおっぱいの味を覚えていないけれど、いちいち何を食べてきたかを覚えてはいないけれど、それでも今目の前にある料理が「美味しい」かどうかを判じることはできるはずなんだ。


 だから、僕にとって「美味しい」と思う料理を、君に振る舞おうとする。何度味見を繰り返したか分からないけれど、僕にとって、ああこれは美味しいと思えるものができたとするじゃない。
 ああ、だから仮にだよ。自慢じゃないけど僕は、小学校の家庭科の調理実習以来まともに包丁も握ったことがないんだから、期待するほうが間違ってると思うんだ。僕が天才料理人の血でも引いてるんじゃなければね。
 とにかく、だ。僕にとっては「美味しい」と思えるものができた。けれど実は、僕は「美味しい」か「すごく美味しい」でしか料理が評価できない味音痴かも知れない。だって今まで、君の料理に僕が「不味い」と言ったことが有るかい? 記憶にないだろう? ……ごめんってば、そういう意味じゃないよ。ああ、でも今のは確かに僕が悪かった。


 でもそこで問題が有るんだよ。
 もし君が、僕の料理を口にして「美味しい」と思ってくれたとしても、もしかしたらそれを「美味しい」と思うのは、世界で君と僕のたった二人だけかも知れないよね。だから、誰にとっても「美味しい」と思えるものが作れる、なんて僕が思ってしまったらそれはただの自惚れになってしまう。
 そりゃあ百人が百人、異口同音に「美味しい」と思うとは、僕も思わない。僕の両親はお互い里が違うから、味の好みも出会った当初は随分違っていたと言うからね。長く暮らしていくうちに、親父がお袋に馴らされた、と言うところだ。……そうだね。僕もいつかは君に馴らされる日が来るんじゃないかな?


 まぁ、そういうことだよ。
 自分から見た評価が絶対だなんて、僕は何に対しても思わない。根拠にはなり得ない、ってことさ。


 ……うん、お腹が空いた。
 何か軽く作ってくれないかな。とっておきの白を一本抜こう。
 なんたって今日は、月末だからね。